――居心地が悪い。

そうだ、その表現がピッタリだ……と、漸く合点がいったヒカルは数分もの間
ニラメッコしていた薄っぺらい国語辞書をポイと投げ捨てた。
何故こんな簡単な答えを直ぐに提示出来ないのか理解に苦しむ、と言わんばかりに
冷たく。

但し、それは己の頭の中での話である。
これでも疾うに成人した社会人。
現実世界で、しかも公共の場でモノを投げ捨てるだなんて痛い行為は
最早恥ずかしくて出来ない。
……自室に一人きりの場合は時々やってしまうが。

とにかく『苦手』なんじゃない。
『苦痛』ってほどでもない。
ただ何となく心地良くない……Tシャツの前と後ろを間違えて
着てしまった時みたいに。
つまりは『取るに足りない小さなこと』。
真剣に悩む価値なんか露ほどもない、『問題』と呼ぶことすら出来ない
極々つまらないことだ。

それなりに混み合う車両のドア付近に立っているヒカルは、数メートル離れた位置で
吊り革の世話になっている男の横顔をチラリ、と確認する。
相も変わらずクソ真面目で尊大で、オマケに冷酷そうな表情であることは
正面からでなくとも充分判るからスゴイ。
しかも瞼を伏せているのに、だ。
きっとあのヘルメットみたいな頭髪に覆われた優秀な脳ミソの中では、目下スピーチの
イメトレでも行われているのだろう。


『この創立90周年記念と云う慶賀極まる式典に於きまして、このような若輩者が
祝辞を述べさせて頂く機会を賜りましたことは大変な名誉であり…』


とか何とか、『若輩者』がそんなクソ生意気なアイサツかましてんじゃねェよ!! と
突っ込みたくなるような内容であることは多分間違いない。
腹の立つことに、それが棋界の重鎮たちに受けていると言うのだから不思議だ。
そして棋院の職員はヒカルよりヤツを選ぶ……
それが『若手棋士代表と呼ばれるに相応しいのはどちらか』を結論付ける行為に等しいと
気付いていながら。

確かに年季の入り方から言えばヤツの方が上だ。
ヒカルが2歳だった頃なんて、せいぜい積木かミニカーかプラレールくらいしか
触ったことがなかったし(覚えていないが)、小学6年の中頃までは囲碁のことを
『ジジイ共の下らない趣味』としか認識していなかった。
もしかしたら違うのかもしれない……そう思い直してみる切っ掛けになったのは、
これまた腹立たしいが師匠の佐為がメインではなかった。
何の前触れもなく目の前に現れ、無知ゆえの子供の戯言に烈火の如く怒り狂い、
直後には人の手首を鷲掴みにしてオノレの(正確には違うが)碁会所へと強制的に
連行しやがった人物が主だった。

それらは微動だにしない真実ではある。
逆立ちしたって囲碁歴はヤツの半分しかないし、囲碁で食べていくようになるほど
この世界にのめり込んだのはヤツがいたからだと認めてもいる。
しかし、誤った認識を捨て去ってからの弛まぬ努力や打ち立てた実績は、2人の『絶対的な差』を
ゼロとまでは言わないが『殆どない』に等しくしたのではないか? と云う思いがあるのも
また真実だ。
実際は記念式典でのスピーチなんか頼まれたら『ンなもんオマエがやれよ!』と件の人物に
押し付けるに決まっているのだが、だからと云って周囲の評価を妥当と思えるかどうかは
別の話である。
ヤツ自身が『ボクが代表で当然』と言わんばかりの素振りを見せているとなれば
尚更なのである。



――大体からして、その態度は何なんだよ?



まぁ昔からだけどな、と付け加えながらヒカルは再度その高慢ちきなヤロウの
横顔を盗み見る。
胸がムカムカしてきた所為か、もう随分涼しくなってきたと云うのに何となく暑くて
上着を脱ぎたくなる。
ヒカルは未だ愛用している“MYSTERY RANCH”のリュックを背中から下ろして網棚に載せ、
ジャケットアクション宜しく両肩から脱いだ上着もその上に載せた。

普通は電車に乗り込む直前に知人と出会ったら、目的地に到着するまでの間は傍に居て
会話ぐらいする。
狭い空間内でのことだし、他の乗客に迷惑だから大声で歓談とまでは行かないが
当たり障りのない言葉のキャッチボールくらいはする。
それなのにヤロウ……囲碁界の瞬間湯沸かし王子・塔矢アキラは、別の車両に
乗り込むことまではしないものの見事なまでに人を無視しやがるのだ。

初めて体験したのは、例の『強制連行事件』の時。
突然降り始めた激しい雨に打たれつつ、腕が千切れそうにぐいぐい引っ張られて
連れ込まれた駅のホームはそれなりに人が居た。
にも拘らずアキラは一向に手首を解放してくれなかった。
次の電車が来るまでの数分間、人目など『何処吹く風』で。
漸くやって来た車両に乗り込み、『閉まるドアにご注意下さい』のアナウンスが
流れる間も放す気配は一向になかった。
ところが、ピンポン、ピンポン…の警告音と共に両開きの扉が再び車内を密室にした瞬間、
待っていたかの如くにその手は離れていった。
被害者意識があった所為かもしれないが、まるで汚いモノを捨てる時のように
ぞんざいな離し方だと感じた。
かと思えばクルリと背を向け、『お前なんか他人だ』と全身で言い放ちながら
サッサとドア横のバーに掴まりにいくアキラを見て酷く納得したものだ。


あぁ、あれは『手錠』だったのか、と。


いや、もしかしたら手錠どころか首輪に近い意味合いだったのかもしれない。
幾ら怒っているとは云え犯人を罰するための連行ではなかっただろうし、
『本気になった自分』がチョイと腕試しするための実験動物……つまりモルモットか
サル程度の認識だったのかもしれない。
もしそうでなかったなら、ひと言ふた言何か言うくらいはする筈だ。
『囲碁大会を見てきたのか?』とか。
『家はどこ?』とか。
別に知りたくなくても、場つなぎ的に訊くことぐらい出来る筈だ。
それすらせずに完全無視していたのは単に不機嫌の所為だけじゃない。
尊厳ある人間として対峙してやる価値などないから、である。

あれから10年近くの時が流れ、自他共に認める『唯一のライバル』に昇格した筈の
今でもアキラの認識は変わっていない。
プライベートでもしょっちゅう顔を合わせ、数え切れないほどの対局を重ね、
2人の関係を『親友』と表現する者まで出てきたのに全く改善されていない。
乗り継ぎ駅のホームでバッタリ出会い、車両に乗り込むところまでは近くに居ても
発車する頃には赤の他人の距離を取られるのが何よりの証拠。
負けるもんかと更に距離を取り、外方(そっぽ)を向いて無視を決め込むヒカルの動向を
一切気にしていないのも動かぬ証拠。
それは今日も今日とて『…おっす』『…お早う』以上の会話は生まれないまま
目的地の市ヶ谷駅に到着することを意味する。
電車を降り、改札を出、微妙な距離を保ちながら棋院に向かう道すがらにも
視線すら交わらないことを予言している。

棋院に着いた後だって同じだ。
余程用事がない限りは話しかけてなんか来ない。
半径1メートル圏内にお互いが入ることすら数えるほどしかない。

……尤もそんなことは別にどうだっていい。
アキラが自分のことをキンシコウだと思っていようが特に問題はない。
そんなものは『取るに足りない小さなこと』だ。
真剣に悩む価値など露ほどもない。
そう……ただ、この空間にほんの少しばかり居心地の悪さを感じるだけ。
新入段の免状授与式の日に味わわされた、あの悔しさを思い出してしまうだけ。



「次は御茶ノ水〜、御茶ノ水です。
左のドアが開きます〜ご注意くぁっ・さいっ」



ゴーーッ、ガタタン、ゴトトン…と云うリズミカルな音だけが響き渡っていた車両内に、
お世辞にもやる気が感じられるとは言えない男性のアナウンスが流れてくる。
当然耳に心地良くなんかないが、それを待ち侘びていたヒカルは若干ながらも
気持ちを浮上させる。

これで4分の1はクリア。
あと4分の3。75%。
魂の解放タイムはそう遠くない。

ポジティブシンキングを信条とするヒカルは、漸次速度を落としていく車両の窓から
サラリーマンやOLに埋め尽くされるホームをボンヤリ眺める。
いつもより混んでるなァ、程度のことならば考えた。
対局開始時間に合わせて乗る日より30分ほど早いだけなのにな、程度のことも
思ったことは思った。
だが、気持ちが既に市ヶ谷駅のホームに飛んでしまっているヒカルには、これから
自分を襲うであろう運命について冷静に考察することなんか出来ない。
故に必要な備えを瞬時に思い付いて行動に移す……と云う『満員電車上級者』なら
当然のテクニックを駆使することなんか出来よう筈もなかった。


――ドド、ドドドド、ドドドドド!!


“ピンポン、ピンポン”と云う警告音の直後、車体がグラグラ揺れるほどの足音が
車両内に木霊した。
ヒカルの対面にあるドアから降りていったのは恐らく10人足らず。
なのに乗ってきたのは30……いや、50人以上は居たのかもしれない。
通路側に素早く体を滑り込ませる者も見えたが、シート前の全ての吊り革が既に
満杯状態では碌な許容量がある筈もなく。
結果、一番広い空間が存在する『ドア付近エリア』の人口は一気に過密状態となる。
どうあってもこの電車に乗らねばならない者たちは、最奥に位置するドアに全身を
押し付けられて『うぐっ』と息を詰まらせる男のことなんか絶対気遣ってくれない。
閉まりゆくドアに挟まれないよう、ハミ出す己の身体を車内に捻じ込むことしか
考えてくれない。


――アレ? でも……その割にはあんまり……


一時は確かに背中をガラスに押し付けられたヒカルだったが、列車が動き出した今は
何故かそれほど苦しくなかった。
目の前に立っているスーツ男とは胸と胸が密着状態であるものの、混雑具合の割には
あまり体重がかかって来る感じがしない。
チラリとその男の腕のやり場を見てみたら、片方はドア横のバー、もう片方は
ヒカルの背後にあるドアに手のひらをついて突っ張っている。
きっとこれ以上“男”の自分と密着しないで済むように、両腕を支えにして背後からの
圧力に耐えているのだろう。
先方は上着を着ているとは云うものの、こちらは素肌にワイシャツ1枚。
薄着の男になんか死んでも寄り掛かりたくない気持ちは解る。
可愛らしい女の子ならともかく、野郎の体温など迷惑でしかないのはヒカルだって
同じだ。

だが、やっぱり奇異なものを感じた。
ヒカルだったらキモい野郎と密着するハメになるとしても抵抗などしない。
苦しいし辛いし気色悪いが、諦めて押し潰されている方が無駄な体力を消耗せずに
済むからだ。
それに自分が頑張ってしまったら、結果的にそのキモい野郎がラクをすることに
なってしまう。
同じ車両に乗り合わせ、こんな混雑する場所を立ち位置に選んでしまったのは
お互い様以外の何物でもないのだから同レベルで苦しむべきだ。
男同士で身体を押し付け合うと云う『寒イボ状態』も平等に味わうべきだ。


――まァいっか。ヘンなヤツでラッキーって思っとこ。


内心で独り言つヒカルは、自分より10cmくらい背が高いその変人の顔を
瞳だけ動かして確かめようとする。
なんかヤケにイイ匂いするヤツだな、と思いながら。



「……っ……!!??」



まともに目が合った瞬間、ヒカルは喉奥で悲鳴を上げてしまった。
電車の運行音で結構煩いのに、それでも耳についてしまったのか付近に立っている数人が
チラリとこちらを確認してくる。
己に影響がありそうな異常が起こったのかどうか、一応は把握したいがための
行動だと思われるが、解っていても表情を『通常モード』に戻せない。
スポンと飛び出しそうに目を見開き。
絶句を余儀なくされた唇を半開きにし。
いつも血色のいい頬はさぁっ……と血の気が引いて真っ白なのが自分でも判る。

『イヤ、別に大したこっちゃナイです』

態度でそう告げて、これから戦場に向かうのであろうリーマンソルジャー諸君を
安心させたいのは山々だったが出来なかった。
例の男の顔に心底仰天してしまったヒカルには、人目を……今も人の顔をジッと
見ているその男の目も含めて……考慮して平静を装う余裕など無かった。


「……大丈夫か?」


その男、塔矢アキラには『足りなくてお困りなら譲って差し上げますが?』とでも
言い出しかねないほど余裕があるらしく、周囲の耳を最大限気遣っていると判る声量で
静かに問うてくる。
な、な、ナニが? と脳内で問い返すことしか出来ないヒカルは、いったい全体
何故こんな状況に陥ってしまったのかパニック状態の頭で推察しようとする。
御茶ノ水に着くまでは確かに数メートル離れた座席前に居たのに。
まるで僧侶みたいに目を閉じて瞑想中だったのに。
乗り込んできた人々に押し流されてこんなところまで来た、なんてギャグ展開は
絶対に有り得ない。
だったら何故だ。
誰かの陰謀か。
だとしたらドコのどいつに何の恨みがあって自分をこんな目に遭わせたいのか。


――ギギッ、ガタン!


驚愕の表情のままグルグル的外れなことを考えているヒカルを、急ブレーキ&
大きな揺れが襲う。
否、正確には10両の列車内全ての乗客に襲い掛かった。
突然思わぬ方向に身体が傾いでしまい、隣に立っている赤の他人の体に余計
寄り掛かるハメになったのは1人や2人の話じゃない。
現在ヒカルが立っている『ドア付近エリア』の乗客たちとて例外でなく、人垣の
あちこちから『うっ』と云う苦痛の声やよろめきの靴音が聞こえた。

……なのにヒカルには『揺れ』以外の影響が殆どない。

どうやらその原因は背中で数十人分の重みを受け止めているらしいアキラだ。
つまりヒカルの身体を跨ぐように置かれ、電車の揺れに合わせてギシ、ギシと
微かな音を立てる両腕が導き出している結果だと思われる。
要するに、無理やり作っている『空間』の中心に収まっているから地獄のような
圧迫感と殆ど無縁でいられるのだ。
相撲取りを目指していたワケでも副業でレスラーとして活躍しているワケでもない筈の
アキラだが、その表情は別に苦しそうじゃない。
若干歯を食いしばっているように見えなくもないが、ムリをしている感じは
微塵もしない。

でも……
でも………

やっぱりとても居心地が悪い。



「……大丈夫じゃねェよ」



サッと顔を背けたヒカルは、段々血の気が戻ってきた頬を意識しながら
吐き捨てるように呟いてみせる。
やんわり密着し合っている胸までどんどん熱くなってきて、バレやしないかと
内心ヒヤヒヤしていた。
鼻腔を擽るこの『匂い』が特にイヤだ。
爽やかだの甘いだの、香水のように明確に表現出来ないのが一層イヤだ。
自分の心拍を徒らに引き上げるから…………堪らなくイヤだ。

目を逸らされても人の顔を見続けていた無礼な男は、そのうち気が済んだのか
ヒカルの背後を流れる風景に視線を移した。
美しくも何ともない、沈んだ鼠色の街並み。
穢れのない朝陽を浴びて薄汚さが更に際立っているビルの群れ。
その目に映るものは精々そんなものだろうに、不思議とウンザリしているような
雰囲気は感じない。
超満員の電車内と云う、正にストレス度MAXな状況に置かれていると云うのに
トゲトゲしいオーラを発していない。


――どくん、どくん……どくっ、どくっ……どくどく、どくどく。


全く持ち主の意図を汲んでくれない心臓は、あれよあれよの間に通常の倍ほど
脈打つようになってしまった。
自分と云うヤツは何故上着を脱ごうなんて考えたのか。
しても遅い後悔が頭の中を駆け巡る。
無許可を理由に即中止を言い渡したいのに、その迷惑千万なマラソン大会には
非常に困った考えまでもが飛び入り参加してくる。
きっとそんなことは有り得ないのだけれど。
どうせ何らかの不可抗力で『こうなってしまった』だけだと解っているけれど。



……これって、もしかして護ってくれてんの?



「次は水道橋ィ〜、水道橋でぅす。
左のドアが開きま〜〜っ注意かっ・すぁいっ」



益々やる気がなくなってきた風情のアナウンスがギチギチの車両内に
降り注がれる。
普通なら少々イラッと来てもおかしくないが、多分誰もが『地獄の終焉』を
予感してホッと胸を撫で下ろしただろう。
天の助けに感じたのはヒカルだって同じ。
一刻も早くこの異常な状況から逃れたいのは多くの乗客と同じ。
胸に一抹の、いや砂粒一つ分ほどの名残惜しさを感じている……と云う、
ヒカル自身絶対認めたくない点以外は。


――ドドドド!!


プシューッ、と云う音と共に扉が開いた直後、飽和状態だった車内から
転がり出るように人々が降りていく。
グラリ、グラリと車内が揺れる。
そこまでは先刻の御茶ノ水駅と同じだったが、その後は違った。
乗り込んでくる客たちの忙しない足音は大して聞こえてこなかった。
それは確実に乗車率が下がった……と云うこと。
隣の人間と一切接触することなく乗っていられるか、と言われれば
到底ムリな話なのだが、少なくとも全身を圧迫し合わねば車両の扉が
閉まらないなどと云う最悪のレベルは脱した。
アキラが背負っていた数十人分の重みも当然消え去り、それに連動して
ヒカルが微かに感じていた圧迫感もスッと消えていく。
胸と胸の間には少なく見積もっても10センチ強の空間が生まれた。


なのに、だ。


それなのにアキラは体勢を変えようとしない。
扉に突っ張っていた左手を下ろし、右脇に挟んでいたアタッシュケースを
そちらに持ち替えることはしたものの立ち位置を調整しようとはしない。
とうとう我慢出来なくなったヒカルは、アキラに体がぶつかってしまうことにも構わず
ぐるん、と方向転換した。

どういうつもりだろう。
どうしていつものように『他人』を決め込まないんだろう。
さっきまでと違って、ある程度なら自由が利く状態なのに。
降りる人々の動きに合わせて上手く離れていく、それぐらいのことは簡単に
出来ただろうに。

何だか腹が立ってきたヒカルは、未だドキドキと煩い心臓を鎮めるために
大勢の人が行き交うホームを眺める。
数秒後には発車を知らせるアナウンスが流れる。
程なく扉が閉まり、呻き声にも似た異音を発しながらズッシリ重い車体は
ゆっくりと動き出す。

残りは僅か2分の1。
否、もう出発したのだから50%以下。
それだけ乗り切れば必ず平和は戻ってくる。
いけ好かないライバルにピッタリ背後を取られている、などと云う戦慄が走る状況は
最低でも残り2駅分で終わってくれる。


「……そんなに嫌だった?」


藪から棒に耳元で囁かれ、既に疲弊しかけていたヒカルの心臓は無情にも
ばいん! と強制ジャンプさせられた。
顔を向ける勇気は湧かず、またも瞳だけ動かして確認してみたら
予想通り声の持ち主の顔は自分の左耳の斜め上辺りにある。
普通に立っているだけであれば有り得ない、その位置。
少し覆い被さるように身を乗り出し、耳元に近付こうとしなければ
生み出せない体勢。
ちっとも美しくない風景のお蔭で収まり始めていたのに、いきなり垂直跳びを
強いられた心臓はまたもや持ち主の意向を完全無視して暴走を開始する。
ガラスの中に映る可愛げのない金髪男は、突然ジャングルで捕獲されて
怪しい研究所に連れてこられた猿みたいに不安げな目だ。

オマエはキンシコウに何の実験がしたいワケ?
急に他人行儀を止められたらどう反応するか、単に見てみたいワケ?

本当にそんな質問をしてしまいそうなくらい動揺し過ぎていて、胸だけでなく
鼻の奥まで痛くなってきていた。


「なっ……ナニが」
「ボクと向かい合わせになるのが」


その小さな囁きは多分ヒカル以外には聞こえない。
それでも『なんでこんなトコでそんなコト訊きやがるんだ!?』と思った。
そもそもこっちが嫌がっていようがどうしようがどうでもイイくせに。
あぁそうか、実験レポートを書くための事実確認かナンかか。
だったら正直に答えてやるよ、サービスで。
一時的にまともな思考力を失っているヒカルは、アキラに気付かれないよう
静かに深呼吸する。
声が震えていたりしたら目も当てられないからだ。


「……イヤ、って言うか」
「……うん」
「なんかキツイじゃん、こういうの」
「……どうして?」
「どうしても」
「言いたくない?」
「別にー。メンドくさいから」
「じゃあ、代わりに言ってあげようか」
「……えっ?」
「『素直になりそうで、怖いから』」
「……っ……」


本当は『ハァ!?』と言ってやりたかった。
『ナニそのブッ飛びまくりの決め付け!?』と全身で驚いてやりたかった。
けれど実際に出来たことと言えば、息を呑んで黙り込むことだけ。
耳の傍で息づくアキラから逃れるように、限界まで右斜め方向に俯きながら。
受けたショックは存外大きくて、此処がもし電車の中でなかったなら
猛ダッシュで逃亡していたところだ。


……でも、何故こんなにショックなんだろう。


ハッキリ言って全くの的ハズレなのに。
自分はいつだって素直すぎるくらい素直だし、怖いことなんて何もないのに。
今さっきだって『もうイヤだ』と思ったから素直にその気持ちに従った。
アキラにどう思われようが怖くないからそうした。
いや……寧ろ嫌がっていると思って欲しいからそうした。
その方がラクだから。
本当はちっとも嫌じゃなかった、なんて気付かれたら面倒だから。


――拒絶される前に、自分から逃げ出した方が……キズが浅いから。


さっきまでとは違う理由から呼吸が乱れる。
否定すら出来ない今のこの態度こそ、先ほどの『決め付け』に対する
事実上の肯定。
知られたくなかったことを自らバラしているに等しい行為。
自覚があるだけに、決定的な宣告を怖れる気持ちが体温を下げていく。
キンシコウは大人に成長しようがあくまで『キンシコウ』。
どう足掻いても『人間』に昇格することは出来ない。
そう思い知らされるコメントを浴びせられるのが怖くて、視界の下方が
みるみる内に潤んでいく。


――責めたいのか嗤いたいのか、どっちなんだよ。


どっちにせよ酷く傷付くのだが、どうあっても選択せねばならないとしたら
まだ前者の方がマシな気がする。
『やっぱりな。思った通りだ』と人を小馬鹿にした口調で言われるより、
『ライバルに余計な感情を持つな!』とか何とか偉そうに説教された方が
まだ人として対等に扱われている気がする。
それに逆ギレもしやすい。
『そんなコト言われたってムリだ!』とか何とか、ドサクサ紛れに怒鳴ってやったら
少しはスッキリするかもしれない。
『いつもいつもいっつもボクは別世界の人間です、みたいなツラしやがって!!』と
今日まで溜めに溜めてきた文句だってぶつけてやるチャンスかもしれない。

まだ前者だと決まった訳でもないのに、一番ぐうの音が出なくなるだろう台詞を
必死に考えるヒカルのことなどお構いなしに電車はレール上を進んでいく。
都会の中心を無理やり走らせているだけに真っ直ぐでも平坦でもない。
時折シャレにならないほどカーブしていたり凸凹している箇所がある。
暫しガタゴトと控えめに揺れるだけで済んでいた車体は、『泣きながらってのは流石に
カッコ悪い』と自覚したヒカルがさり気なくシャツの袖で目元を拭おうとした瞬間、
また大きく揺れた。


――グラリ。


後方に強く引っ張られた身体は、全くの無防備だった所為で派手に傾いた。
だが『おっとっと』と情けなくよろめくと云う、立派な成人男子にとって由々しい事態には
陥らずに済んだ……背後の人間にサッと抱き留められたからだ。

抱き留められる、と云っても両腕がしっかり絡んできたワケではない。
広い胸で背中全体を受け止め、ほんの少し前方に出した腕の付け根辺りで
『固定』されただけだ。
理由だってきっと大したものはない。
目の前にいる被験動物がフラ付いていたから、支えてやった。
そんな程度の、言わば条件反射でしかない。


「もっとしっかり立て、進藤」
「………」


明らかに苛立ちが滲み出た口調でそんなことを言われ、疾うに傷塗れの
ヒカルのプライドにはまた新たな切り傷が生まれる。
同い年の男に怒られたくなんかない。
人格破綻しているヤツに指示なんかされたくない。
どうせその通りにしたって、プラスの評価なんか絶対下さないクセに。
どんなに頑張ったって、永遠に認めることなんてないクセに。


「全く……キミがそんな調子だから」
「………」
「そんな調子だから……傍に来ざるを得ないんじゃないか」
「…えっ?」
「怖いのが自分だけだなんて思うな。……ボクだってそうだ」
「…………」


最初から半分怒り気味だったが、後半は完全に怒り口調だったアキラは
恐る恐る目を上げるヒカルをやっぱり怖い目で見ていた。
ところが、微かに濡れて赤らむ目元に気付いた瞬間『!』のマークを
瞳孔だけでなく顔中に浮かび上がらせる。
数秒経ってそれが消えたら、怒りの表情に逆戻りすることはなく
何か思案するような顔になる。
それから……『そんなに見るな』と言わんばかりに目を逸らしてしまう。

想像していた展開とは少し方向が違うようだけれど、アキラの真意が
よく判らないヒカルは黙ってその様子を見つめる。
結局のところ怒っているのかいないのか、イマイチ判断出来ない。
さっきのコメントから察するに、アキラが自分の傍にやって来たのは
『仕方なかったから』らしいが、それが『怖い』とどう繋がっていくのか
まるで見当が付かない。
だったら手掛かりを求めて見つめるしかない。
こんな至近距離だけに、更に胸が痛くなって苦しいけれど。


「今、結構思い切って言ったんだけど」
「……へ?」


ドア脇のバーを握り締める自分の手を見ながら、拗ねたように言うアキラは
雰囲気がいつもと違う。
何処がどう、とハッキリ言えないけれど明らかに違う。
そもそもアキラの方から目を逸らす、なんてこと自体が覚えている限りでは
初めてじゃないだろうか。
目が合ったが最後、対局中だろうが検討中だろうが『逸らしたら負け』とでも
思っているみたいに睨み返してくるのが常なのに。
何故今日は違うんだろう。
何故『思い切って』何かを言ったりするんだろう。


「もしかして、本当に解ってない?」
「……ナニを?」
「だから、その……ハァ……」
「なっ、何だよ!? ハナシの途中で溜息なんか吐くなよ!」
「しーっ。電車の中だよ、此処は」


つい声を荒げたヒカルに慌てたらしいアキラだったが、これ以上注目を
浴びないよう控えめな仕草で周囲を確認している。
それが終わったら、敵ながらウッカリ見入ってしまうほど澄んだ両目は
銀色のバーでなくヒカルのところに戻ってきてくれた。


「…っ…お、オマエがちゃんと答えねェからだろ?
さっきからワケ分かんねェコトばっか言ってっ」
「いや、つい情けなくなったんだよ。
あれで察してもらえると思っていた自分の浅はかさが」
「!? 察するって、オレがかよ!? 一体ナニを!?」
「しーっ………言葉じゃ無理だな、もう……」
「!!?? どーいう意味だ、そっ……」



――ちゅっ。



再びサッと周囲に視線を巡らせた直後、素早く前傾になったアキラは
ヒカルの唇の上でそんな音を立てた。
触れ合ったのは1秒にも満たない間だけ。
接触の度合いだって欧米ならば『挨拶』で通ってしまうレベル。
それでもヒカルはボン! と云う破裂音を空耳に聞いた。
顔が火炎放射器に変わる錯覚なんて、多分生まれて初めての経験である。


……満員電車の中で。
衆人環視の状況下で。
それより何よりどうしてアキラが。
何がどう間違ってあのアキラが……キンシコウ認定している自分なんかに、キ、キ、
キっ…………ウキッ?


混乱し過ぎて『脳内一人ボケ』をかましてしまうヒカルは呼吸すら忘れている。
少ない脳ミソ内を暴れ回る疑問符は生命活動すら忘れさせる。
けれど今度は手掛かりを求めて見つめるなんてことは出来ない。
燃え上がるように赤く染まった顔なんて意地でも見せるワケに行かない。
大慌てで明後日の方を向いたヒカルは、『こんなことで動揺なんかしない』と
アピールするための手立てを必死に考える。
茹で蛸のような顔を見え辛くは出来ても、髪の隙間に見え隠れする赤い耳は
よりアキラに確認し易くなってしまった……と気付きもせずに。


「ナ、ニ……してんだよ、オマエはっ」
「要約」
「…は?」
「だから『要約』。さっき言いたかったことの」
「はァ!?」
「……伝わらなかったんなら、もう1回するけど」
「ばっ……バカなコト言うな!!」


つい噛み付くように顔を見上げたヒカルに、もう『しーっ』と言うことに
疲れたらしいアキラはただジッと見つめてくる。
カチンと来るほど不敵な口振りだった割に、その表情はふてぶてしい感じじゃない。
人を小馬鹿にした感じでもない。
アキラの皮を被った他人じゃないかと思うくらい、とても不安げな目をしていた。

『売り言葉に買い言葉』で思わず怒鳴ってしまったことを後悔したヒカルだったが、
それ以上何か言うことも外方を向くことも出来ない。
どうやら自分をからかっているのではないアキラの、余り見慣れない類の表情から
逃げることが出来ない。
何となく既視感を覚えているから、余計に。

でも、確かに『何となく』だけれど気のせいじゃないことはハッキリ判る。
自分はつい最近、こう云う目を……こう云う表情を間違いなく何処かで見た。
相手の出方を怖がっているような。
相手の言葉に身構えているような。
自分の運命を想像すら出来ず、ただ怯えることしか出来ない実験動物のような……


――動ぶ……


つ、って……えっ?
えぇぇ?
それってまさか、まさか…………さっきの…



「次は飯ら橋、飯ら橋るぇす。
おれ口は右側り変わりぁーす、っ注意っぅあっすぁい」



言葉もなく見つめ合う二人を現実に引き戻したのは、『メンドクサそう感』が
いよいよ半端なくなってきたそのアナウンス。
此処が何処であるかを思い出したヒカルは、ちっとも勢いが衰えない火柱と共に
パッ、と目を逸らした。

視界を埋め尽くす都心の街。
見えてくるホームの端っこ。
徐々に近付いて来る列車待ちの乗客たち。

平凡過ぎる朝の風景は今さっきまでと何一つ変わらない。
それなのに……何故だろう。
思わず目を細めたくなるくらい、映るもの全てが眩しい。
臆病な自分を勇気づけてくれるくらい、この碌でもない世界が眩しい。


――ピンポン、ピンポン、ピンポン……


その警告音と共に開け放たれたのは、車両右側のドアだけではなかった。
列車の出入り口と違って、そうそう簡単に開くことのないもの。
開いたら最後なかなか閉じられないもの。
知ってはいるけれど、もうこれ以上怖がったりしたくない。



「……えっ!?」



網棚のリュックと上着を素早く右手で下ろしたヒカルに、左手で手首を
鷲掴みにされたアキラは驚きの声を上げる。
でもそんなことには構っていられない。
サッサと降りなければ乗客たちのジャマになってしまう。


「どうしたんだ!? ここはまだ市ヶ谷じゃ……」
「しーっ。駅の中だぜ、ココは」
「……っ……とにかく手を離せ、歩き辛いから!」
「ヤだね。だってコレ、オレの『要約』だもん」
「……えっ?」
「たまには一駅分ぐらい歩きたい。……他人のフリなんかやめて」
「…………」
「もっと色んなこと話したい。オマエの話も聞きたい。
そーいうのが詰まってんだよ、この『手錠』には!」
「………」
「まァ……素直になるって約束すんなら、放してやってもイイけど?」
「……」


流石に照れ臭くて、前を向いたまま只管ホームをずんずん歩くヒカルを
アキラは無理やり立ち止まることで制止した。
自然ぐん! と腕が引っ張られる形になり、ヒカルの身体は後方に
大きく傾いでしまう。
それこそが狙いだったらしいアキラは、そのタイミングに合わせて更に強く
引っ張ってくる。
ドスンと云う音が鳴りそうなくらい、二つの胸がぶつかる。

通勤・通学ラッシュのホームのど真ん中。
明らかに迷惑そうな視線を投げてくる人々にもお構いなしで。
今さっきまで乗っていた列車が起こす突風に髪を乱されながら……

逞しい両腕に強く、強く抱き締められた。


「ちょっ……ナニしてんだ、オマ……ぐっ」
「素直になっていいんだな?」
「いっ、イイ、けど……ナニもこん、なっ……」
「じゃあ今日のイベントは休んでくれ。急病になってくれ」
「っはァ!? ナニをイキナリっ……く、苦し…」
「キミが女の子とイチャつく姿なんて……もう見たくない」
「い、イチャ!? ぐっ……つく、って、一体ナンの話……
つーか離せよ!! 思っきし注目浴びてんだろーが!!」
「『休む』と約束するまでは離さない」
「……っ……」


がっちりと背中に回された両腕の締め付けは抵抗すればするほど
強くなってくる。
ヒカルの脳裏には昔読んだ絵本のストーリーがふと思い浮かぶ。
そこから得た教訓にも続けて思いが至り、ヒカルは密着する身体を何とか
引き剥がそうとする手をだらん、と下に下げてしまった。

北風なんかじゃこの腕は解けない。
マイナス30度の冷気なんかじゃ誤解も思い込みも解けっこない。
だったら。
それがどうしても必要なら。
触ったら一瞬で溶かされてしまう、太陽になるだけ。


「分かったよ。約束する」
「……本当に?」
「うん。ただし」
「……但し?」
「一生オマエしか好きにならない、って約束だけど」
「…………」


嫉妬と云う名の『拘束』がすぅっと緩んでいく。
悶えそうな恥ずかしさを堪えている両肩が大きな手に包まれる。
見たこともないほど熱い目が、まだ少し怯えの残る瞳を覗き込んでくる。


「一生その約束を破る気にさせない、って約束してもいい?」


回りくどい言い方が少し可笑しくて、クスリと笑いながらヒカルは
こくんと頷いた。
一瞬不本意な表情を見せた気がしたアキラも結局はクスリと笑う。
それから……また人を溶かすような目になって。
そのまま唇を塞がれそうな気配を察知したヒカルは、右手に持っていた上着を
思いっ切りアキラの脳天に被せてやったのだった。




○ + ● + ○ + ● + ○ + ● + ○ + ● + ○




その日の『日本棋院 創立90周年記念式典』は万事恙なく執り行われた。
アキラの若手棋士代表としての祝辞然り。
ヒカルと女流棋士のペアによる『ゆうちょ杯決勝戦』の大盤解説然り。

ただ、『恙なく』と云ってもヒカル個人としては相当の気苦労があった。
どんな行動がアキラに『イチャついている』と評価されてしまうのか、実は
良く解っていなかったからだ。
だから取り敢えずの対策として、リップサービスのつもりで頻繁に口にしていた
『相手を持ち上げる系』のコメント……『このオサエはかなりイヤでしょうね。
ゆかりんにオサエられるなら歓迎だろうけど』だの、『石の流れがキレイですね。
カナちゃんほどじゃないけど』と云った類のアレだが、なるべく言わないように
心がけた。
ヒカルとしては全く本気ではないし、相手だって笑って聞き流すかバッサリと
切り捨てるだけの話だし、その様子を見たお客がドッと笑って場が和むのだから
寧ろ『誉められるコト』をしているつもりだったのだが、他に心当たりがないから
仕方なかった。
そう云った場面ではいつも会場の隅で最悪に不機嫌そうな顔をしているアキラが
その日は普通……と云うか、ヒカルが思わず解説を噛んでしまうほどあからさまに
『普通じゃない目』で見つめていたから、多分ヨミは正解だったに違いないが。

式典終了後に近所の『グランドヒル市ヶ谷』で催されたパーティも大盛況だった。
一般参加の囲碁ファンたちは、普段は遠い存在であるプロ棋士達との交流を心から
楽しんでいた。
ヒカルも一般女性囲碁ファンに取り囲まれはしたが、いつものように『あ、メアド?
イイよイイよ〜』と軽いノリで応えたりはしなかった。
実際はメールが来たところで“普及”を念頭に置いた囲碁の話しか書かないし、
余りに面白くないからか皆すぐ送って来なくなるのだが、メアドの交換自体を
『イチャついている』と言われかねないからだ。
別に場が寒くなるほど冷たい態度を取ったワケではないけれど、いつもよりは
ノリが悪いことに違和感を覚えた者も多かったかもしれない。

仲良くなろうとしてくれる皆に悪い、とヒカル自身も思いはしたものの、
『無防備すぎて見ていられない』などと云う“男”として屈辱的な台詞を
二度とアキラに言わせたくなかった。
満員電車で他人に身体を触らせ放題にしている、とまで思われていたのは
ショックだったけれど……その辺は多分、アキラの嫉妬深さ故だろう。
当のアキラだって棋界の重鎮を中心に蝶よ花よと可愛がられ、女流棋士や
女性ファンに取り囲まれてヒカルを苛々させたのだから人のことは言えない。
まぁヒカルと違って『恐れ入りますが親しくなろうとは思わないで下さい』と
オーラで宣言しているから、良しとしてやるが。

その真似をしようとは思わない。
しようと思っても出来ないし、恐らくアキラもそんなことは望んでいない。
万が一のことを考えて、最低限の警戒心を持つ。
それだけ心がけてくれればいい……偉そうにそんなことを言っていたから。


――言われなくても、絶対もうドアのトコには立たない。


『※アキラが傍に居る時を除く』と云う注釈付きだが、ヒカルは心密かに
そう決めている。





「で? あの『シカト』の理由は結局ナンだったワケ?」
「……あの、っていつのこと?」
「あーあー、シカトばっかこいてっから分かんねェんだなっ。
あの免状授与式の時だよ! オマエが初めて連勝賞と勝率第一位賞
もらった日っ! めっちゃくちゃガン飛ばしてさー、せっかくオレが
話しかけてやってんのに華麗に素通りしてったじゃん!」
「あぁ、あれは……」
「おう、何だよ!?」
「『運を使い果たした』と感じている自分が怖かったから。
キミのプロ初戦の相手がボクになったことを」
「……なんだ、ソレ」


ぷっ、と噴き出したヒカルを見てアキラも『ふっ』と微笑う。
それから裸の肩を優しく抱き寄せる。
事後のキスを交し合う二人は、程なくそれが『事前』のものに変わることを
同時に予感していた。





Fin




Aquarelleのエル様より頂きました!!
実は、私が絵でリクエストをさせていただき、そこから書いていただいたものになります。
初々しい通り越して、余所余所しい2人をグッと近づける満員電車、素敵です///
その時、リクエストで描かせていただいたものが、コチラでした。



(2014.9.11UP)


エルさま、本当にありがとうございました!











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