ヒカルがいないと知っているマンションに、早く帰ってくるのは、少し寂しいものがある。

アキラは、スーパーの袋を片手にキーケースから自宅の鍵を選び、ガチャと鍵を開けた。
暗い玄関の照明を点け、スーパーの袋を持ちながら、片手で器用に革靴を脱いでいく。
きちんと両足を揃えて靴を向きなおした際に、左腕の手首が見せた腕時計は、まだ19時を回っていなかった。

予定していた指導碁が先方都合でキャンセルとなり、アキラは早々にマンションへ帰宅することになったのだ。
そんな時に限って、ヒカルは他の棋士と飲んで帰宅が遅くなるというので、今日は一人で夕飯を食べることになる。

せっかく早く帰宅できたのに肝心のヒカルが不在ではつまらない。
この時間があれば、ヒカルとみっちり検討することが可能であり、心行くまで一局打つことも出来る。

今あるこの空白の時間で、何よりヒカルと共に過ごすことが出来るのに。

いくら同居しているとは言え、近頃は互いに仕事が詰まっており、なかなか二人で、ゆっくり過ごすことが出来ていなかった。

アキラは、あまり食欲も進まず、スーパーで調達した野菜と肉を冷蔵庫に仕舞い込む。
適当に余り物を炒めようと、チルドにある豚肉と、野菜室から野菜を数種類取り出して閉じると、
ふと、冷蔵庫の正面に貼られているホワイトボードの予定表が目に付いた。

縦に長いホワイトボードには、月曜日から日曜日の曜日と日別の区切りの線が予め印刷されており、
右半分がアキラの予定、左半分がヒカルの予定を書くスペースになっている。

今日のアキラの予定は、指導碁と黒いペンで書かれており、左半分のヒカルの欄には同じく黒いペンで大きく×と書かれていた。
雑に書かれた×を見て、アキラは小さな溜息を吐くと自室に戻り、スーツの上着とネクタイをクローゼットに掛けに行った。

アキラは冷蔵庫に磁石やメモ等を貼ることを好まないが、
ヒカルがあまりに自分のスケジュール管理が出来ない事を危惧して、少し前にこのホワイトボードを購入することになった。

以前、うっかりヒカルが既に入れていた予定を失念し、
後から重複して同じ日時に別の予定を入れてしまうという事態を起こしてしまったことがある。
所謂ダブルブッキングとなってしまった二つの予定は、どちらも断り切れない重要な予定で、
どうにかしてヒカルは時間を調整し、無理矢理二つの予定をこなす羽目になったのだ。

大変な思いをして身に染みたヒカルは、やっとスマートフォンに予定を入力するようになったが、
初めは真面目に入力していても直ぐに面倒臭くなり、結局長くは続かなかった。

ヒカルが自分の予定をざっくりとしか覚えない理由は、簡単だ。
ヒカルが覚えていなくともアキラがマネージャーの如くヒカルの予定を覚えている為、事細かな予定まで一々覚える必要がないのだ。

「社会人としてスケジュール管理を出来ないのは、どうかと思う」と指摘すれば、
「オマエが覚えているからいいじゃん」というあっけらかんとした返事が返ってくる。

そう言われてしまえば、アキラは呆れて次の言葉が出てこなかった。
アキラとしては、頼りにされているのは嬉しい事だが、一大人としてその程度の事くらいは、自覚して欲しい…と思っていた。

痺れを切らしたアキラが何か策はないだろうか?と考えていると、意外な所で良案が見つかった。

取材の為、棋院の上にある週刊碁・編集部を尋ねたアキラは、ふと柱に貼られているホワイトボードの予定表が目に入る。
各社員の予定が書きこまれたホワイトボードを見たアキラは、これだ!と確信し、
早速帰宅中に電車に揺られながら、スマートフォンで一週間の予定が記入できるホワイトボードをネットで購入した。

それ以降、ホワイトボードはアキラが思っていた以上に活躍している。


例えば今朝の出来事だ。


「あ。オレ今日ゴミ当番か」

歯磨きと髭剃りを終えたヒカルが飲み物を求めて冷蔵庫を開こうと手に掛けると、目についた予定表を見て呟く。
自分の欄に赤色の丸い磁石が貼られている日は、ゴミ出し当番をするという決まりになっている。

ヒカルは冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、左手に持ったガラスのコップに並々と注ぎ、牛乳パックを元の位置に戻した。
ゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲み干すと、ヒカルは思い出したと言わんばかりに目を丸くし、
空いている右手で、今日の予定に“×”と大きく記入する。

「夜、和谷達と呑んでくるから夜飯いらねぇし、遅くなると思う」

コップをシンクに置き、振り返って新聞を読むアキラに話し掛けると、ヒカルの声に反応して顔を上げた。

「うん、わかった。ボクも今日は指導碁が入っているから遅くなるかな?」

椅子を引いてアキラの目の前に座ると、目の前には既に朝食が並んでいた。
今日のメニューは和食だ。
炊き立てのご飯に、昨日作った具沢山の豚汁の残りと、いただきものの佃煮に、根菜のきんぴらサラダと、ホウレン草の入った卵焼き。
アキラお手製のシンプルなメニューだ。
基本的にご飯当番は、週変わりの交代制になっており、互いが出張や棋戦で外泊する際は当番が変則的になる。

アキラは、急須の蓋を押さえながら二つの空のマグカップにほうじ茶を注ぐと、マグカップの白い内側が茶色へ染まっていった。

「ふ〜ん。誰?」
「緒方さんの知り合い。以前にも何度か指導碁をお願いされた人だよ」

マグカップをヒカルの前に置き、もう片方を自分の方に置くと二人は手を合わせる。

「いっただきまーす」
「いただきます」

アキラは豚汁を静かに啜り、ヒカルは6等分になった卵焼きを口にする。
美味しそうにヒカルが咀嚼する姿を見てから、何事もなかったようにアキラも卵焼きへ箸を伸ばした。

塔矢家の卵焼きは、だし巻き卵と砂糖入りの卵焼きとホウレン草の入った卵焼きの3種類があり、
今日は、そのレパートリーの中から彩りと栄養面も考えてホウレン草入りの卵焼きになった。
だし巻き卵は忙しい平日にはなかなか作れない為、普段は砂糖かホウレン草の卵焼きになることが多い。
昔は、卵焼き器で思うように一気に手早く巻くことが出来ず苦戦したが、コツを掴んだ今では、綺麗な形に焼き上がることが出来る。

同居してから初めてホウレン草入りの卵焼きを食べたというヒカルも、
この卵焼きが一番好きだと気に入っている為、アキラも嬉しく思っていた。


ネクタイを緩めながら、そんな朝のやり取りを思い出して、再びアキラは小さな溜息を吐いた。


ヒカルが帰ってくるのは恐らく23時を過ぎた頃だろう。
もしかしたら日付が変わっているかもしれない。

自分がこうして自宅で一人過ごしているのに、ヒカルは仲睦まじい棋士達と共に過ごしていると思うと、
どことなく遣る瀬無いような気持ちで満たされてしまう。

早く帰ってこないだろうか…。
普段なら適当に過ごして終わるだけだが、今日はたったの10分でも異様に長く感じる。

“恋しい”とは、まさにこの事なのかもしれない。

台所に戻り、冷蔵庫に貼られた予定表の“×”を見て、アキラはヒカルの帰宅を心の底から願うばかりだった。
そんな身勝手な願いが届くことはないだろう。と知りながら。


***


夕飯を食べ終え、洗った食器も拭き取って食器棚に仕舞うと、アキラは居間ではなく自室に戻った。

あまり物を置いていない部屋の隅にあるパソコンの電源を入れると、大きな液晶画面が明るくなる。
アキラは棋譜整理をすることにした。
近頃は纏まった時間もなく、棋譜が溜まっていく一方だったので、丁度いいと言えばいい。
椅子に座り、ログインしてパソコンが立ち上がるのを待つと、数個のアイコンしか並んでいないデスクトップ画面が開いた。
アキラは、もっぱら棋譜整理と、多少の調べ物をする以外にパソコンを使うことがない。

棋譜も対局者別にフォルダ分けしており、中でも一番多いのは、やはりヒカルだった。
小学生の時に父の碁会所で初めて対局した一局から、正式に記録の残る公式戦、
このマンションで対局した印象深い一局も、全てこのパソコンに棋譜が残っている。

“進藤ヒカル”のフォルダを開くと、年度別に棋譜がズラッと並んだ。
どの棋譜でも一目見れば、この時どこで打ったか。どんな対局だったか。どんな日だったか…
という記憶まで鮮明に思い起こすことが、容易に出来る。

ああ。この一手は進藤らしい発想の一手だった。
この手は、進藤にしては珍しく攻め込んできたな。
確かこの棋譜は、碁会所で検討中に言い合いになって、進藤が怒って帰った奴だ。
これは、思いがけず進藤に打たれてしまい、ボクが投了してしまったものだ。
と、棋譜を見ながら過去を振り返るのは、とても楽しい。

その反面、ヒカルと打ちたい。という気持ちが益々強くなってしまう。
打ちたい。打ちたい。ヒカルと打ちたい。ヒカルに会いたい。

「進藤…」

アキラの唇から漏れたヒカルの名前は、静寂な部屋にぽつんと浮かんで消えていった。
しん、と静まり返る部屋に、ギシ…とアキラの座る椅子が軋む音が響いた。
どこかの飲食店で盛り上がっているだろうヒカルを想い、アキラは目を瞑る。

その時、遠くからガチャガチャとドアの施錠を解く音が聞こえた。
気のせいだろう。と思ったアキラは、“進藤ヒカル”のフォルダを閉じて、新たな棋譜を入力し始める。

すると、すぐにドタドタと騒がしい足音が聞こえて、ドアが開かれる。

「塔矢っ いるの?」
「進藤?!随分早いじゃないか」

振り向いたアキラが、予想外に早く帰宅してきたヒカルを見て目を丸くする。
ヒカルは、酒を飲んだせいか、顔を真っ赤に染め上げて、実に上機嫌な様子だ。
ニコニコと笑いながらアキラに近付いていく。

「うん。ただいまーっ 塔矢!」
「和谷くん達との飲み会は?」

まだ9時半を過ぎたばかりだ。
飲み会の割には帰宅が早すぎると、アキラは嬉しい半分驚きを隠せない。

「行ったよ?」

ヒカルは、へへへ…と満面の笑みを浮かべると、椅子に座るアキラになだれ込み、そのまま胸板にコツンと頭を傾ける。

「でも、塔矢の話をしてたら塔矢に会いたくなって…早く帰ってきちゃった」

その言葉を聞いて、アキラは刹那思考を止めて、すぐに意識を取り戻す。
どうして進藤は、酒に酔っていると、こうも可愛いことを言ってくるのだろう。

正直、本当は自分がいないところで、他の誰かと飲酒をしないで欲しい。
と、言っても互いに立派な社会人の一員である為、ヒカルの付き合いまで制限をする訳には行かない。
こんなに可愛い姿を、自分以外の他の誰かにも晒していると思うと、アキラは耐えられないのだ。

「飲み会は18時スタートで2時間半の飲み放題コースだったけど…、二次会のカラオケは断ったんだぜ?…オレ偉いだろ?」

ヒカルが褒めて欲しいと言わんばかりに得意気に話をすると、アキラはヒカルの頭を優しく撫でた。

「そうだね。おかえり」
「指導碁は?」
「ああ…向こうの都合でキャンセルになったんだ」
「そっかぁ。残念だったな。でも、早く帰ってきてよかったぁ」

まさかオマエが家にいるとは思わなかったと、無邪気に笑うヒカルに釣られて微笑むと、
内心、ボクの話とは一体どんな話をしていたのだろうか。と、アキラは気になり始める。
その時、ふと、ヒカルの唇に何かが付着している事に気付いた。

「進藤、何か付いてる…」
「へ?」

唇についている白い何かを指で取ろうと近付けると、ヒカルの唇が開き、アキラの指をぱくっと口に含んだ。

「何をする…」

軽く噛まれ、ちゅう。と人差し指を吸われると、アキラは内心ドキッとした。

酒で赤らめた頬に、虚ろ気なヒカルな目。
思わず目を見開いて、そんなヒカルの様子をまじまじと見つめてしまう。
余計なことを考えてはいけない…と思いながら、そう思わせてしまう扇情的なヒカルが悪いと、アキラは黙って受け入れた。

「ボクの指が美味しい?」

ヒカルは顔を上げて指を口に含みながら、頷いて返事をすると、再びガジガジと歯を立て始める。
一口一口、ヒカルが噛むごとに前進し、同じように噛みながら指先に向かって後退していく。

「進藤、ちょっと痛いんだけど…」

指先まで噛み終わると、一度ヒカルの口から解放され、アキラの指が自由になる。
微かに残るヒカルの歯型を見て、何も思わないアキラではない。

噛まれた方の手で優しく頬を撫でると、ヒカルは頬を傾けてアキラの少し冷たい掌を感じる。
うっとりとするヒカルに、撫でていた掌全体をそっと沿わし、
頬に押し付けて離してから、親指と人差し指で挟むようにヒカルの下唇へ触れた。

「もっと食べたい?」
「ん…」

返事の代わりにヒカルの左手が、がっしりアキラの右手を握ると、ヒカルは口を少し開いてアキラの親指を口に含んだ。
アキラは空いた左手でヒカルの腰を抱き、近くのベッドの方へ誘導すると、そのままアキラのベッドに二人は腰掛けた。
二人は向き合いながら、ヒカルはアキラの親指を舐め、アキラは残された4本の指でヒカルの頬を擽る。
ヒカルの上顎と舌の間に親指が挟まれ、何度か吸い上げられると、ペロペロと飴を舐めるように指先へ舌を何度も往復させる。

「楽しい?」

何も味なんてしないはずなのに、楽しいのだろうか?
お酒に酔っているせいか、こんな事を自ら率先して行うのは珍しい…。
と、満更でもないアキラは、楽しそうにヒカルを観察し続ける。

ヒカルの唇が、ヒカルの舌が、自分の親指に絡む様子を見て、アキラは息を飲んだ。
あまりに扇情的で、まるで煽るような仕草は、否応なしに不埒なことを連想させてしまい、そんな自分が憎たらしい。

そんな風に思わせてしまうキミが全て悪い。キミのせいだ。

アキラは睨むように飽きることなく自分の指を舐めるヒカルを見つめる。
親指は、だいぶふやけてしまい、ヒカルの唾液が指を伝って、手の甲に垂れていくのをアキラは肌で感じた。
無自覚なのか、意識的なのかは置いて於いて、なんて淫らなことをしてくれるのだろう。
ここまでされて何も感じない方が可笑しいくらい、ますますアキラはヒカルに追い立てられていく。

「ぅ…塔矢…」

口から指を離して、ヒカルが甘えるような声でアキラを呼ぶ。
まだ左手でアキラの右手を掴んだまま、何かを訴えたいようにアキラを見つめる。
何が言いたいか、何となく察しは付いているアキラだったが、敢えてヒカルの要望を無視することに決めた。

今度はアキラが扇情的にヒカルを煽る番だ。

「…進藤、知っているか?唇は指の次に敏感な器官なんだよ?」

先程までヒカルに舐められていた親指でヒカルの熟れた下唇に触れ、左端から右端の口角までなぞりながら、アキラが言葉を紡ぐ。
ベッドのシーツに両手を置いて、ヒカルの前髪に短いキスをし、流れるようにヒカルの瞼へ、くすぐったいキスを落とす。

「………」

次はどこにキスをされるんだろう。と、ヒカルが胸を高鳴らし構えると、分かり切ったような顔で、アキラは再びヒカルへ顔を近付ける。

ヒカルの頬へ、親愛の意を込めて唇で柔らかな頬を挟むと、太腿の上に置かれたヒカルの右手を丁寧に持ち上げた。
そのまま掌へ、願いを込めて舌を這わして優しい刻印を付け、手甲に移り、尊敬を込めて、ただ触れるだけのキスを何度も口付ける。
辿っていくようにヒカルの手首まで唇を進めると、欲望を込めて音を立てて強く吸い上げる。

「んっ…」

刹那震えたヒカルを見逃さなかったアキラは、もう一度強く薄い皮膚を吸い上げてから、
唇を離すと、そのままヒカルに寄り掛かるように体重をかけて、ベッドに押し倒した。

目を開いて驚くヒカルの顔にアキラの黒髪が触れ、アキラは耳に髪をかけると、
ヒカルの唇へ、愛情を込めて優しく全てを包むようなキスを落とす。
堪能するように時間をかけてから、ゆっくり唇を離して目の前のヒカルを見つめる。

「…ほら、敏感なもの同士が接するから…」

アキラの言葉を聞いて、すっかり酔いが冷めたヒカルは、再び顔を真っ赤に染め上げる。
吐息が顔に当たる程の至近距離で見つめられ続けると、ヒカルは耐えきれず目を泳がす。

「……とーや…」
「何?」
「………………」

一向に口を開こうとはしないヒカルを、くすりと笑うと悪戯をひらめいた子供のようにアキラがヒカルの代わりに言葉を紡いだ。

「…したくなっちゃった?」
「……せ、責任取れよ…」

本当は、塔矢と“こういう事”がしたくて、早く帰ってきた。
とは、とても恥ずかしくて口には出せない口篭もる唇を、まだ乾かないアキラの指で開かせる。

「責任取れるかどうかは、やってみないと分からないな」

開いた唇からヒカルの整った白い歯列が覗き、綺麗だな…と見惚れていると、重なっていたヒカルの前歯が開く。

「痛っ!噛むなと言ってるだろう?」

ヒカルが、反抗的に思いっ切り歯を立てて指を噛むと、むっとした顔でアキラを見つめる。
熱が篭もって仕方がない。と言わんばかりに、強気な目でアキラに訴えかける。

「全く…キミって人は…」

素直になればいいのに…。
とヒカルに聞こえないように小さな溜息を吐いて、噛まれた指を自ら癒すように横から口に含んだ。

責任を取って欲しいのは、むしろキミの方だ。散々煽ってくれたのはキミなのだから…。
思いがけずに叶った身勝手な願いが消えないように、アキラはヒカルの唇を再び封じ込めた。









Qさまより、いただきました。
以前私が描いた、指舐めヒカルをイメージして書いてくださったそうです^^
指舐め進藤さんの素晴らしさをすべて網羅した小説をありがとうございます・・・!
ちょっと酔ってる進藤さんがうっとりと徐々に舌をからめて、指がふやけるほどの指舐め・・・をベットの上で延々と行われるというのがジャスティスですね!!



(2015.1.14UP)








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